軽巡洋艦 神通とはこんな艦

アオシマ 1/700 日本海軍軽巡洋艦 神通 1942 を作ります。

最近はゲームの影響で駆逐艦や軽巡洋艦も注目されるようになりましたが、ゲームが出る以前から人気の高かった軽巡洋艦があります。

それが神通です。

神通は精鋭部隊といえる第二水雷戦隊の旗艦を長く勤めていいました。

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水雷戦隊とは何をする部隊?

簡単に言うと
水雷戦隊とは魚雷を最大の武器とする巡洋艦や駆逐艦で編成された艦隊です。
魚雷というのは大砲よりも射程が短い代わりに一発の威力は大きいです。
巡洋艦や駆逐艦くらいの大きさの船が持っている大砲に比べれば段違いの破壊力があります。

小さな船にも大きな破壊力の武器が積めるということで
大きな船を大量生産できない国にとっては魚雷は魅力的な武器だったんですね。

しかも、日清戦争で魚雷を武器にする水雷艇隊が大戦果をあげたために
日本海軍はすっかり魚雷攻撃がお気に入りの作戦になります。

その後、魚雷攻撃を行う船はどんどん大きく魚雷がたくさん積めるようになって
重武装の駆逐艦が登場します。

その駆逐艦で編成された部隊を率いて戦うのが軽巡洋艦に与えられた役目でした。

日露戦争後、日本海軍は敵として戦うことが予想されたアメリカに対して
船の数では絶対的に少ない状況でした。
軍縮条約で船の量を定められていたというのもありますし、条約が切れた後も
国力の差からどうしてもアメリカ以上に船を作ることはできなかったのです。

それなら少ない戦艦の数でどうやって、アメリカの大艦隊に勝つかという事を考えたときに
戦艦同士の決戦が行われる前に他の船で損害を与えてしまえばいいという事になったのです。

その損害を与える役目を任されたのが巡洋艦や駆逐艦で編成された部隊です。
もちろん、それらの船の武器として頼りにしていたのは魚雷です。
ですから日本海軍は他の国の海軍よりも船に魚雷を多く積むことにこだわりました。

水雷戦隊の中でも真っ先に敵に突撃するのが第二水雷戦隊の役目でした。つまり切り込み部隊なのです。第二水雷戦隊には特に優秀な船と乗員が集められました。第二水雷戦隊の一員になる事はとても名誉な事だったといわれています。

その精鋭部隊である第二水雷戦隊を長い間率いていたのが「神通」です。

5500t型軽巡洋艦とは

神通は大正時代に量産された5500t型といわれる軽巡洋艦のひとつです。

日本は天龍型軽巡洋艦で世界のレベルに追いつきました。
でもイギリスが更に高性能の巡洋艦を造りました。

そこで天龍の設計が終わると直にイギリスの巡洋艦を参考にしつつ天龍型を拡大改良して設計が始められました。そして天龍が浸水する前に設計が終わりました。それが5500t型巡洋艦です。

←天龍型は世界レベルに追いついた記念すべき船だけど
 浸水前に旧式化決定・・・
 8隻の予定が2隻で打ち切りに・・・

当時、日本海軍は小型、大型の二種類の軽巡洋艦を作る予定でいました。
小巡が天龍型、大巡は不明ですが7200tの船でした。

でもアメリカの船はどんどん高性能になって、天龍型では対抗できなくなりそうでした。かといって大巡だけ量産したら予算が足りません。そこで海軍は以後の天龍型の製造と大巡を中止して既に設計の終わっていた5500t型を中型の巡洋艦(中巡)として採用し、中巡に絞って量産することにしました。

ちなみに7200t大巡は中止されましたが、計画変更のたびに形を変えては復活し最終的に加古型(古鷹型)として完成したといわれています。

←条約がなければ加古は重巡じゃなかった?

ちなみに当時の「軽巡洋艦」は我々が連想する「8インチ砲を持たない巡洋艦」とは違う種類の船です。当時は装甲巡洋艦よりも小さくて高速の巡洋艦を軽巡洋艦と呼んでいました。

5500t型は基本設計が同じですが途中で改良されたので少しずつ違うものになって行きます。

・球磨型:球磨、多摩、北上、大井、木曽
 (就役:1920~1921年)
  5500tの基本形 

↑登場時は名実共に世界レベルの球磨型

・長良型:長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈
 (就役:1922~1925年)
  航空兵装と魚雷を強化した

↑新造時から61センチ魚雷を搭載したのは長良型から

・川内型:川内、神通、那珂
 (就役:1924~1925年)
  重油不足が予想されるので石炭ボイラの割合を増やした

↑20年たっても最新型。4本煙突が特徴の川内型

さらに、加古、音無瀬、水無瀬、綾瀬・・・と
続く予定でしたがワシントン海軍軍縮条約により打ち切りになりました。

軍縮条約のせいで、5500t型の製造が中止になっただけでなく軽巡洋艦そのものの製造も長い間行われなくなりました。

重巡洋艦を増やすことを優先したので軽巡洋艦が後回しになってしまったのです。

太平洋戦争が始まった時、当時の最新型の軽巡洋艦は20年前に造られた川内型という有様でした。(だから川内型が旗艦を勤めるしかなかった)

実験的な性格の強い夕張を除けば、川内型の後に造られたのは阿賀野型。期待の新型軽巡洋艦が配備されたのはミッドウェーで機動部隊が壊滅した後の昭和17年11月。既に水雷戦隊に活躍の場はなくなりつつありました。

↑登場が遅すぎた5500t型の後継者。阿賀野型

神通の奮戦

しかし最後の5500t型が作られて20年後に起きた太平洋戦争では、予想していたような水上艦同士の艦隊決戦の場は起こらなかったのです。

戦場は飛行機が中心の戦いとなり、水雷戦隊が敵主力部隊に近づいて魚雷攻撃というのはかなり無謀な作戦になってしまいました。

そんな不利な状況でも神通は戦果をあげて、
日本軽巡洋艦の中では最も活躍した船のひとつといわれています。

太平洋戦争開戦から蘭印作戦

太平洋戦争開戦時は第二水雷戦隊旗艦でした。
インドネシア、フィリピン方面の作戦に参加します。資源を確保するための重要な作戦でした。

まず、フィリピン攻略戦に参加。
空母龍驤がダバオ(ミンダナオ島)空襲する際は護衛につきました。

←空爆を行った龍驤
 空母機動部隊にはついていけないが
 蘭印作戦では重要な役割を果たした

蘭印作戦(オランダ領インドネシア)ではメナド攻略部隊の旗艦として参加します。
メナドは今のインドネシアのスラヴェシ島(当時の呼び名はセレベス島)です。

オランダは当時本国をドイツに占領されており、インドネシアまで失う事は死活問題でした。
インドネシア防衛のため、オランダ、イギリス、アメリカ、オーストラリアの連合艦隊が編成され、日本軍を迎え撃ちました。

そしてジャワ島攻略の際には大規模な海戦が発生します。
1942年2月27日から行われたスラバヤ沖海戦です。

日本は
 第4水雷戦隊(旗艦:那珂、他 駆逐艦6)
 第2水雷戦隊(旗艦:神通、他 駆逐艦4)
 東方支援隊(旗艦:那智、羽黒、他 駆逐艦4)
 
連合軍は 重巡2、軽巡3、駆逐艦9隻からなる艦隊でした。

戦闘は神通の発泡で開始。
激しい戦闘の末、連合国側は重巡1、軽巡2、駆逐艦5隻を失い撤退します。

↑この戦闘で戦果をあげたのは妙高型重巡。写真は羽黒

その後は、しばらく戦闘の機会はなく
ミッドウェー作戦では上陸部隊の護衛を行いました。

第二次ソロモン海戦では船団護衛中に空襲にあい被弾。修理のためいったん戦列を離れます。

↑神通が修理の間第二水雷戦隊旗艦を勤めたのが五十鈴(ただし、防空能力強化前)

神通が修理から復帰してもしばらくは待機や輸送任務が続きました。

日本軍はガダルカナルの奪還のため、コロンバンガラ島に戦力を集中させ反撃作戦を行おうとします。

1942年7月コロンバンガラ島防衛のため、補充兵力の輸送任務が命じられます。
7月12日、神通は第二水雷戦隊旗艦として清風、雪風、浜風、夕暮、三日月と輸送隊の皐月、水無月、夕凪、松風および輸送船を引きつれラバウルを出航しました。

運命のコロンバンガラ島沖海戦

昭和18年7月12日夜。

第二水雷戦隊と輸送部隊を率いた神通はコロンバンガラ島の北岸にさしかかります。
しかし、島まであともう少しという所で連合国軍に見つかります。

連合国艦隊接近を探知した日本側は輸送船団と護衛の皐月、水無月、夕凪、松風を離脱させ、第二水雷戦隊の6隻が戦闘準備に入ります。

連合国側の艦艇は軽巡ホノルル、リアンダー、セントルイス、駆逐艦10隻。

神通と5隻の駆逐艦は倍以上の数の艦隊を相手にしなければなりませんでした。

しかも米軽巡ホノルルとセントルイスは日本でいうと軽巡時代の最上型に匹敵する大型軽巡洋艦。オーストラリアのリアンダーは米軽巡より旧式とはいえ、それでも神通より10年若い艦でした。

連合国艦隊はレーダーで第二水戦の接近を探知。戦闘状態に入ります。

神通は味方の雷撃をしやすくするために探照灯で辺り一帯を探索。

もちろん、夜にライトをつければ目立つので集中攻撃を受けます。
おかげで神通は2600発ともいわれる砲弾を浴びて沈没するのですがしかも神通はただ被害を受けていただけではありません。
集中攻撃を受けながらも魚雷攻撃を行い、敵巡洋艦に命中させたともいわれます。また、完全に船が水没するまで砲撃を行い続けました。

その間に雪風以下駆逐艦部隊が敵艦隊に接近、魚雷攻撃をしかけます。

↑雪風の戦果も神通の犠牲があってこそ

最終的にこの海戦では神通が沈没しましたが、味方に被害はなし。
アメリカ軍の軽巡3隻大破、駆逐艦2隻大破、駆逐艦1隻撃沈という戦果をあげます。

神通達が戦闘を行っている間に、輸送部隊は上陸に成功させ本作戦の目的を達成しました。

↑輸送隊を護衛したのは旧式となっていた睦月型

↑同じく最も旧式の駆逐艦となっていた神風型

神通はこの海戦やそれまでの功績から、アメリカ側からも「日本で最も激しく戦った船」として賞賛されました。

この海戦では旗艦が沈んだというだけでなく艦隊司令部を失うという大きな損失を出し、日本側にとっても大きな教訓を残しました。以後夜戦でのサーチライト照射禁止は徹底されることになります。

この時代は飛行機、潜水艦、レーダーという新たな敵が戦場を変えていき、
神通が作られたときには想像できない状況になっていました。

そんな状況でも、水上艦同士の戦いの中で勇敢に戦い華々しく散っていった船として印象的な船です。

そんな神通を作ってみたいと思います。

では

次回は製作に入ります。

参考記事:軽巡洋艦 神通の作り方1

 

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